オーロラの音を聞く

薬さに

刀剣男士のいない世界に囚われた審神者が、それでも独りで生きていく話。

刀の物語から人間に向けられる、切実な祈りと願いのこと。



 雑踏の隙間に身体を滑り込ませて歩いている。東京ではみな一心に目的地だけを見ているから、私など誰の目にも留まらない。ぶつからないよう鞄を胴に押しつけて、極力体積を減らす振る舞いにも慣れてきた。

 独りだ。近侍も御伴も傍にいない。目を凝らしても、彼らの姿をどこにも見出せない。前は確かに見えていたのに。意識を向ければ「いる」と分かったし、彼らの声を聞く力も持っていたのに。……私は、審神者だったのに。

 時の政府によって解任されたのか、自分から本丸を出ていったのかは思い出せない。事情を思い返そうとすると、思考に歪んだ靄がかかる。忘れてしまったというよりは、情報に辿り着けないようロックがかかっている感じ。何者かの作為が働いていると気づいていても動きようがなかった。この状況がおかしいのかの判断もつかない。

 審神者になったときは大学生だった私も、幾年を経ていまは社会人だ。実家を出てのひとり暮らしも板についてきた。とはいえ余裕はないしあんまり丁寧でもない。大鍋で煮込んだみそしるも、季節の野菜を取り入れたおかずも遠ざかってしまった。ぎりぎり日々から振り落とされずにいるだけ。それでも生きている。生きていられた。

 私の知らないところで、遠い時代で、どこかの記憶で、審神者と刀剣男士たちはいまも戦っているだろうか。知るすべもない。戦は遠い未来の歴史かもしれないけれど、本丸の物語は残らない。物語だから。取るに足らない、事実ではないものだから。私たちのなかでしか交わされなかったものだから。だから、知らなければ知らないままに過ぎ去ってしまう。

 では、私の刀だった物たちは? 私が知覚しなくなった彼らは、いまどこにあるだろう。私の内側に問いかけてみても、それは心配というより、薄い膜を挟んだどこかに向けたため息に近い。掌で受け留めて、捉まえてくれる「なにか」はいなかった。


 ふっと気が弛むとき、いつも思い知らされる。たとえば、皿を洗っているとき。乗換駅の階段を上がっているとき、スーパーでレジ待ちの列に並んでいるとき。帰宅して、まずマフラーとコートを剥ぎ取るとき。

(ああ、)

 審神者でなくても、独りでも、傍に彼らがなくっても。生きていけてしまうのだ。それは別に、不幸でもなんでもないことなのだ。


 心の大部分を彼らに寄せて、預けていた。ぜんぶ喪ったから、そのあたりが酷くすかすかする。ただそれだけのことだった。


 緩やかに醒めていく夢だ。そう思うことにした。そう決めないと狂いそうだった。

 刀のいない世界で足を止めずに生きるには、ぜんぶ嘘だと思えばよかった。



***



「本丸システムのバージョンアップに伴い、現在各サーバーでは蓄積データの見直しが行われています。その過程でローカルファイルが数点破損したか、誤った保存先を参照した可能性があります」

「というわけで、ここからは白山くんをゲストにお迎えして、僕、にっかり青江と」

「三日月宗近がお届けするぞ」

 毒気を抜く軽さを演出しながら、青江は広間の刀たちをざっと見回した。出陣も遠征も取りやめているが、十二振りの姿が見えない。事態に気づいて点呼を取ったときの冷や汗は、いまだ背中に滲んでいる。青江だけではない、いつも通りに見えても、誰もが不安や危機感を覚えているだろうと分かっていた。部隊の一割強と指揮官を失っている状況だ。最悪の一歩手前と言えた。

 時間遡行軍を擁する歴史修正主義者に対抗するため、国が極秘裏に立ち上げた一大プロジェクトを、包括して刀剣乱舞計画と呼ぶ。それは西暦二二〇五年から歴史という舞台に上がり、日本刀にとって特異点となった遠い過去――西暦二〇一五年から灯る光を照り返すことで成立している。

 けれど各本丸で描かれる日々は「政府が定めた、マスターとして残すデータ」の外の、膨大な余白に書き留めているに過ぎない。他愛のないやりとりや動いた心の機微を、その走り書きを、知るひとは少ない。もし誰かが書き換えてしまっても、きっと気づかれないほどに。

 そうして物語は、後の世にほぼ残らない。残るのは、残す意志が働いた脚本だけ。

「とまあ仔細はともかく、概ねそのあたりの仕組みを利用させてもらっていたのが、春先までの俺なわけだが」

「いや分かるけど分かんねえよ……」

 壁際にもたれかかっていた和泉守兼定がげえ、と眉をひそめる。三日月宗近はどこ吹く風で微笑んで躱した。

「いなくなったものたちは、それぞれ新たな物語のなかにいる」

「『もしも』の物語のなかにね。浪漫だよねえ」

「――あなたたちには『もしも』の物語が見えているのですね、……すべて?」

 白山の、感情の乗りにくい声音の縁に、一抹の咎めるような「まさか」がよぎる。三日月宗近がやっていたのは「そういうこと」で、いまさら問い詰めるような新事実でさえない。それでも白山吉光は慮らずにいられないようだった。揺らぎ、増え続ける「もしも」の世界線すべてを見通すような眼をほんとうに持っているのなら――それは付喪神の分霊が処理できる情報量をゆうに超えているはずだと、青江自身も理解していた。……三日月宗近のほうは、特に。彼とは防人作戦以降連携を図るようになったが、彼がどういう機構で動いているのかの全容を知っているわけではない。彼はまだ青江の理解を超えたところに在るのだろう。

「どうやら僕と三日月では、覗ける場所が違うようだけどね」

「にっかりが視るのは主の『もしも』すべてだそうだぞ。神剣でないながら、主という人の信仰を受けて疑似的に神力を得たにっかりらしいな」

「そして三日月は本丸の可能性すべてを見通しているということさ。スケスケだねえ」

「いやそんな『役割分担が完璧にできててラッキー』みたいなテイを出されても」

 ぼそりと入ったつっこみは後藤藤四郎だろうか。テイもなにも「役割分担が完璧にできててラッキー」以外のなにものでもないのだけれど。

「そういうわけで、主の書き換わった物語がどれかは分かっているから、その点は安心してほしいな」

「違ってしまった物語の筋書きを、取り戻してもらえるか……こればかりは、俺たちの力だけでどうにかできることではないが」


「でも、もう薬研は行ったよ」

 呆れたような、諦めているような、静かな声がしんと響いた。


「『あとは頼む』ってさ、言うだけ言って行っちゃった」

 乱藤四郎だった。胸元に短刀を一振り、よすがのように握りしめて立っていた。乱の本体ではない。気配がほとんど抜け落ちてがらんどうになっている、薬研藤四郎を預かっているのだった。

「ほんと、緊急事態なんだから、勝手な行動は慎んでよって感じ。ごめんね、うちの兄弟が」

「相も変わらず血気に逸る子よ」

 愛いものを撫でるように小烏丸が笑う。その実、面白がっているだけかもしれない。



***



 ネイビーのトレンチコートを身体に巻きつけても、十二月のビル風は厳しい。雑居ビルが立ち並ぶ薄暗い通りを足早に抜けていく。この時期は夜が早かった。

「大将」

 耳を切る風に紛れて声がする。なんだかすごく安心する、それでいて胸が落ち着きなくざわめきだす。低い声が、私のすぐ傍で、耳打ちするみたいに。

「たーいしょ、聞こえてるだろ」

 どこから追いかけてくるんだろう。頭上の電光掲示板、電車の側面、コンコースの壁面……それとも、私の内側から。けれど振り返らない。心は動かない。確かにいつかには命そのものみたいに大切な声だったはずだけれど、いまはもう、通り過ぎる景色に塗り込められて流れる、その声と目が合わない。

「知らない」

「いいや、あんたは知ってるよ」

 ほんの少しも動じない、子供相手に遊んであげてるみたいな返事。ついむきになって、マフラーに埋もれた首を振る。

「知らないってば、いないひとのことなんか」

「いるだろ」

「分かんないよ」

 余計に子供っぽくて嫌になる。でも、だって、そうでしょう。

 たとえば私がいまここで変質者に刺されて死ぬとして、この声は私を助けられない。歴史を変えてはいけないからではない。もっと物理的に、世界に「いない」から。声も、言葉も、貫く刃も、生きるなかで降りかかる理不尽を、暴力そのものを排除する力はない。立ち向かうのはいつも「私」ひとりだ。

 そういうものだって分かっている。分かっていても、それでも泣きつきたい日が幾度となくあった。ねえどうしてって、なりふり構わずわめいてめちゃくちゃに走りたくなる度に胸を抑えつけて、じっと堪えてやり過ごすのだ。「いない」ものに助けを求めたってしょうがないじゃないって、自分に言い聞かせて。

 諦めて、きたのに。

「そうかい。それならそれで構わんさ」

 ふっと、凪いだ空気が僅かに揺れた。あんまりに優しい、とりとめのない首肯。

「――え、」

「本音を言えば、ちいと堪えてるよ。俺たちは望まれなきゃ指一本動かせない」

 狡さの欠片もない声が、私を少しも責めずに笑う。脅迫だとは感じなかった。堪えると言いながら、同時に心から「それで構わない」と思っていることが分かったから。忘れ去られても、私の望みならそれでいいなんて。私が聞いて描いた物語は、苦しくなるほど私に都合が良い。私を傷つけないために作られているみたいでグロテスクだ。

 それでいて、私の内側に、あるいは頭の上に降り注いで止まない声は、私を優しく絡めとって逃げ道を塞ぐ。

「でもあんたは知ってるし、聞こえるだろ。あんたは審神者だから」

「……もう違う」

「やめられるもんじゃない。あんたのそれは生き方だ」

 そして生き方は変えられないから。私はこの先も、どこにでも、刀剣男士の影を見るだろう。

「……やめられなく、したのは」

「俺たちだな」

「勝手に責任を引き受けようとしないで……」

「取らせてくれや、それくらい」

 なんでそんなに嬉しそうなの。どんな顔で見つめられているのか手に取るように分かってしまうから胸が詰まる。だって私こそずっと見てきた。言葉を交わして、ときにはなにも喋らないで。私が捉まえた彼のすがたを、指でなぞって一緒にいたのだ。

 下まぶたが熱い。眉根を寄せて、目尻に力を込めて耐える。私の我慢なんてお見通しだろうに、声はつかず離れずを保って、意識の端に引っかかり続けるだけだった。



***



 人も刀も、誰もが知っている。

 いつか、いつか、いつか、物語は終わるだろう。夢の跡を懐かしむことさえ、いずれ忘れていくだろう。跡形もなく、声も絶えて、やがて塵すら残らない。

「だが『語られなかった』ことの証明にはならんよ。……俺たちは在る。在ったとも」

 三日月宗近は鷹揚に頷く。幾百年、眼差しを受け容れてきた佇まいで。

 彼はただ知っていた。刀剣男士と呼ばれる存在であれば、きっと皆分かっていた。物が語る声があること。声を聞く人がいること。聞きたいと願われていること。


 この世界に、審神者がいること。



***



 大通りには人の気配がない。車の走行音や、ビルの室外機がごうごういうのが渦巻くだけで、奇妙に静かだった。この都市を歩いているのは自分ひとりかもしれない。息を止めて耳をそばだてれば、声はより澄んで届く。

「いいよ、俺をいないと思っても」

 真っ直ぐに、空に星が降るようだ。放してはくれない。諦めてくれない。

 声が、私が望んだ物語のかたちなら。諦められないのは、誰。

「それでもいいから、……絶望だけはしてくれるな」

「ぜつぼう」

「うん」

「……どうしたら、いいの」

 知りたいか。肩を揺らして、くつりと笑う様子が見える。途方に暮れた私がいずれ手を伸ばすときを待ち構えていたに違いなかった。狡い刀だから。ううん、一生敵わないくらい大きい刀だから。

「じゃあ、試しに俺を呼んでみてくれ」

「それ、は」

「信じてくれ、……この通りだ」

 有無を言わせない声。切実さを隠しきれていなくて、言葉の端が僅かに震えていた。なにを信じてほしいというの。あなたを、それとも、私自身を……?


 足を止める。北風が靴先をすり抜けていってしまった。足音も衣擦れもぴたりと止んで、はっとするほどの静寂に包まれる。そうか、そうだ。私は独りだ。


 東京を、たった独りで歩いているなら。どうせ誰にも聞かれないなら。

 一言零したところでそんな音、あってもなくても同じでしょう。


「……薬研?」


 白い息が遠慮がちに漏れる。空に溶けるより先に、腕をむんずと掴まれて腰を引かれた。背丈が変わらない少年の、温度の低い浅紫の眼差しが、くっきりと私を貫いた。

 瞳の奥に火花が散って見えることってほんとうにあるんだ。強すぎる静電気の苛烈さが駆け巡って焼けつく。どうしていいか分からなくて、捕らわれたまま固まった。目を逸らすことができなかった。私を抱き寄せながら、薄く細い身体は寒さのせいでなく強張っていた。

「――ああ、よかった」

 やがて薬研は眦を和らげて微笑んだ。薬研藤四郎にしては情けないっぽい、焦りと安堵を隠しきれず綻ぶ口許。「私」の薬研だなあと思う瞬間。

「大将、大事ないか」

「……え、わた、し?」

 いま、この状況で心配されるのって私だろうか。

「気が気じゃなかったぜ、正直」

 額と額が触れ合った。お互い冷えきって、温もりが伝わるどころではなかった。情けないのはお互い様だった。ただひとつ、闇を薄めた夜の内側で、私たちは互いの息遣いを聞いていた。

 なあ、大将――

「言ったろ、……俺のいない間、無茶すんなよって」






2023年1月29日発行

思えば湿っぽい黎明って感じだなあ これをずっと捏ねていたので、黎明くん観たときにすっと腑に落ちていました


読書会で本を語ることは結局自分を語ることなんだ、という大学の恩師の言葉が下敷きにあります

わたしたちが聞く彼らの声は、常にわたしたちのためにあるんだろうなあと思います


感想等いただけたらうれしいです


紙でほしい人向け

タイトルはポーラライト箔です 生産終了して、いまある限りの光をどうしても使いたかった


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