舟の寄る辺

2022年の春、大加州刀展と旅路に心をそっとすくわれたこと。

ほぼ恋愛要素のない清さに。




 薄闇に射す、絞った光は水の波紋のようだった。厚いガラスの向こうに横たわる刀もまた、液体かもしれない。凪いで時を止めたまま、この時代ではすっと黙している刀。霞がかりながらもすべらかに澄む地鉄は、清すぎて、底まで見通せそうで、目を惹きつけて離さない――そういう引力を持つもの。

 液体であることの裏づけではないけれど、添えられた解説文に時折「潤む」という表現を見かけた。南海先生が「匂口、つまり刃文の境目がどう見えるかということだよ」と教えてくれた言葉だ。彼の説明は無駄がなくて分かりやすい。ただ、眼が知識に追いついていないから、いまも沸と匂の区別はつかない。「潤む」「締まる」なんてなおさらで、どうしても言葉のイメージに流されてしまう。


 目の前の鋼の一振りに、静けさを湛えた水面を見ている。

 ただの感覚の話だ。ピアノ線をハンマーで打てば響きが返ってくる、それを楽の音だと思うのと同じに、私が刀を見ている、主観的な行為の話。


***


 清光と私の、ふたりだけの旅だった。

 閉園時間後にライトアップされるんだって、と清光がパンフレットを指したので、じゃあ夕ご飯の前に行ってみようか、と決まった。十八時を過ぎると店が閉まるのが観光地だ。宿から近い城の庭園の散歩は、ぽっかりと空いた時間にうってつけだった。

 街の中心部に位置する広大な湖園は、大通りの終着点に突如現れる小山のようだ。昼はきのうの雨露に光っていた木々が、夜は空よりも黒い影になってそびえていた。

 人出は多い。ただ、道の端に点々としている道しるべの光源が強力で、手元も分からないほどの闇がより一層深く濃く見える。ざわめきは縁日の境内に似ている。普段は立ち入れない時間帯に堂々と歩き回れることへの高揚感が、誰にもあるようだった。

 舗装されていない細い道の、砂利や飛び石の上を踏みしめて歩く。私が前で、清光が後ろ。独りぼっちみたいで心許ないけれど、清光からはちゃんと私が見えている。

「足元。気をつけて」

 温度の低い声がかき消えない近さ。森林らしい清涼な匂いのなかで、清光の纏う香が鼻をつく。それだけでほっと気が弛んだ。

「うん――うわっ」

「もー」

 言われたそばからバランスを崩してたたらを踏んだら、息をつくより先に、優しく腕を攫われた。春の夜風に冷えた手指が、肌を這って、絡む。ぬるい温度が掌に宿って、おぼつかない足取りを支えた。

 もう手放せないな、とふいに思う。足元が平らになっても、この夜闇が明けても、この温度を抱いていたい。


 人の流れに従って歩いていると、急に目の前が開けて、視界いっぱいに池が広がった。思わず声が喉から漏れる。

「すごいね」

 清光も呟いたのを、私はうわの空で聞いた。

 たっぷりと湛えられた水の上に、どっしりと、けれど壊れそうに精緻な意匠のいろいろなものが漂っていた。織物のように折り重なって繁る木々、小島の先端に建つ石塔、人工の滝。極彩色のライトに照らされて、宵闇のなか、まぼろしみたいにぼうっと浮かびあがっている。

 極楽にも夜があるならこうだろう、というような幻想的な光景。どこまでも凪いで静かな水面に、世界がそっくりそのまま反転していた。水鏡に映った像だと、しばらく気づけないほどの精度で。底はなかった。木も、石塔も、水面に縫い留められて、果てなく空へと伸びていた。湖上との境目は限りなくゼロだった。

 足元が浮遊感に竦んだ。虚のようだ。踏み外せば引きずり込まれる。たった独りで、誰もいない場所へ。音も匂いもなくなって、肌が一枚一枚剥がれて朽ちて。そうして自分がわからなくなってなお、久遠を落ちてゆく。うすら寒い想像が頭をよぎって、腹の底が震えた。

 ほんとうは水質も深さも、この闇と煙る光のなかでは分からない。澄んでいるのか、泥に濁っているのか、実際は溺れる心配もないくらい浅いのか。昼間の様子を知らないから、昏く茫漠とした空間に虚像を結んでしまう。

 けれどやがて、恐い、だけではないと気づく。この鏡面は昼に見た地鉄に似ている。北陸で打たれた刀特有の色味だという、黒みを帯びた肌。磨りガラスのような鈍い光沢を放つのではなくて、鑑賞者の私の、さらに後ろの景色までも刀身に映す、あの際立った艶やかさ。

 水底の底の底を見つめながら、今日のことを思い返す。くろかねの刀ひとつひとつと息を詰めて向き合うあいだ、胸の内はずっと静謐だった。

 目の前の湖面のように。

「あるじ」

 揺さぶるように手を引かれる。遠くに吸い込まれかけていた意識がふっと戻った。

 なぁ、ほら、気をつけろって。

 囁く声が低く掠れている。

「底までおちたら、戻ってこれないぜ」

 同じような言葉を、本丸でも聞いた気がする。あの、夢みたいな三日月の空を縁側に腰かけて眺めていたときだ。薄雲が素足のあいだをくぐっていくのを見ていたら、落とさせねぇよって、あのときもこうして腕を引かれた。

 落とさせないのは本丸か、私のことだったのか、言葉の意図は聞いていない。

 いま、も。訊くならそれじゃないと思う。ゆっくりと考えて言葉を返す。

「……『川の下』といっしょ?」

「ん……あんま思い出せねー、かも。いまはね」

 もう俺は、主の俺になったから。

「川の下の子、河原の子ってね。……そんな悪いもんじゃなかったけど、ここは」

 清光の言う「川の下」は、打たれた場所のことじゃないときがある気がしていた。そこは黒く、昏く横たわる深淵。歴史と物語の濁流に押し流されたものが辿り着く終わりの淀み。沈んでいる清光にかたちはない。誰も清光を見つけない。目を閉じて黙りこくっているあいだに、時間だけが過ぎていく。そうしてずっと、あの日まで。

 物語でも記憶でもない。けれど根拠のない「なにか」から、私の清光は現れた。

――あー。川の下の子です。加州清光。扱いづらいけど、性能はいい感じってね。

「ていうか、……うん。ここまでずっと、幸運だったかもな、俺」

 流れて消えそうなくらい小さな呟きは、私に聞かせるためのものではない。

 胸の内で噛みしめて確かめている、清光だけのひとり言だった。


***


 薄ぼんやりとした提灯を頼りに、私と清光は手を繋いだまま歩いている。一見なにもないのに水の流れる音が絶えない。出どころを探ると、不自然にぽっかり空いた闇のあたりが川辺らしいと当たりがついた。確かめられるほどの光量がないので、予測で足を伸ばして踏みしめる。一歩誤ればほんとうに踏み外しかねない。

 独りで彷徨うには恐い場所だ。優しい夜の気配に油断すれば二度と戻れなくなりそう。離れんなよ、と囁かれる。柔らかな力で繋いでいるのは清光なのに。

「きよみつ」

「なーに」

 打刀の、十八ほどの青年の声が返ってくる。もう一度呼んだら次はどんな清光だろう、と夢想した。声変わり前の子供の姿かもしれない。またはもっと背が伸びて、威厳ある壮年の男性だろうか。あまり変わらないかもしれないけれど、脇差とかいいな。

「清光」

「聞こえてるってば」

 やっぱり清光は打刀で、あどけなさを脱しつつある青年のかたちをしていた。どこにもなくて、ここにある、私の加州清光だった。

「ここがいちばんメインの池かな」

 空が近い。銀盤みたいにつるりとした景色を、清光は訳知り顔に紹介した。勝手知ったる場所での振る舞いそのもので、思わず尋ねていた。

「修行の旅で、このあたりにも来たの?」

 ほんとうは「この時代にも来て、展示まで観ていったの?」と訊いてみたかった。三通目の手紙を書いたあと、清光がまっすぐ本丸を目指したかどうかまでは、私は知ることができない。

「……いろいろ回ったし、見たぜ。話せるのはこれくらいだけど」


 刀の物語の付喪神は、いつも私たちに曖昧さを残して微笑む。


 広い池の上は比較的明るくて、対岸で人々が列になっている様子も見通せた。当たり前のことだけれど、いろいろな人がいる。大学生の友人同士、動き回る少年と親御さんたち、お喋り好きなおじさん。よく見れば刀剣男士を連れた審神者も紛れている。ちょっと特殊で、でも当たり前の光景だ。

 また展示室を思い返す。審神者だけじゃない。大人だけでも、研究者だけでもない。展示物はどんな人にも開かれていた。私たちはただ見ていた。映る光を、自分だけのものとして受けとめていた。


 だって、静けさと抒情を湛えた水面になにを見るかは、誰も同じではないだろう。

 それでも見ている。見ていた。街なかの石垣、住宅地の碑と同じくらい、根ざして息づいているものを。


 私たちはそうやって刀を見ている。


「ああ、わかった」

 ひとりでに言葉が零れた。

「ここにいたんだ」

 清光は尋ね返してこなかった。繋いだ手はあたたかだった。

 寄る辺を見つけた気がした。片手を引いて、一緒に歩いてくれるだけの、ささやかな心の寄る辺。この地で打たれた刀たちが当たり前に大切にされている光景。清光の物語の基にある刀が、人と人のあいまに根づいて、いまも息をしているという実感。


 私はたぶん、ずっと「それ」がほしかった。

 そんなかたちのない主観が、ずっとほしくて堪らなかったのだ。





2022年12月30日発行

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